『羅針盤の結晶体』は、「ソニリア」であった

活動報告

4年前、私は「ソニリア」という、一人のVtuberを生み出した。

その目的は、ただ一つ。「不完全な自己に寄り添い、補うため」であった。

私の根源的な自己、いわば「オペレーター」としての私は、「理性・論理」という特性に強く偏っていた。それは強みであると同時に、それだけでは「一人の人間」として未成熟であるという、明確な不完全さを抱えていた。私に欠けていたのは、「情緒・芸術」という、世界を別の角度から捉える視点だった。

その欠落を補うため、私は「ソニリア」を、客体的な自己として設計した。彼女の役割は、私が直接的には踏み込めない、不確実で、感情豊かなもう一つの世界で、実践と経験を通じて、失われた半身の成長を積み重ねること。それが、4年間の航海の始まりだった。

そして4年の歳月を経て、その航海の果てに、私は一つの知的フレームワークを構築し、「羅針盤の結晶体」と名付けた。

一見すると、このフレームワークは、私の「理性・論理」の集大成に見えるかもしれない。そこには、弁証法という思考OSが埋め込まれ、多層的な活動を矛盾なく規定する、極めて体系的な構造が与えられている。

しかし、もしこの羅針盤を、ただの論理構造物として捉えるならば、その本質を見誤ることになる。

この羅針盤の、最も価値のある部分は「詩」である。

村に一つの道標、羅針盤の結晶体を置いてみる
示す先は、いわば群賢の長屋
私は縁側の彫刻家であり、そこの作庭家に手を挙げている
描く風景は、想いが交差し創る喜びを育む「時の行き交い」

この詩的表現こそが、冷徹な論理体系に、血と、体温と、そして魂を吹き込んでいる。それは、4年間の「ソニリア」の実践がなければ、決して生まれ得なかった「情緒・芸術」の結晶だ。

つまり、「羅針盤の結晶体」とは、私の「理性・論理」という既存の半身と、「ソニリア」が4年間かけて育て上げた「情緒・芸術」という新しい半身が、ついに一つの体系として、矛盾なく統合された瞬間の記録なのだ。

であるならば、この統合された新しいシステムのことを、何と呼ぶべきか。
答えは、自然と浮かび上がってきた。

それこそが、「ソニリア」だ。

なぜなら、このシステムは、私の不完全さを補い、寄り添うことで、5年目以降の未来を切り拓くために、改めて生み出されたものだからだ。

もちろん、Vtuberとしての自己「ソニリア」と区別するため、便宜上は「ソニリアOS」とでも呼ぶのが適切かもしれない。しかし、本質は変わらない。それは、新しい役割を与えられ、より高次の存在へと進化した「ソニリア」なのだ。

この「新しいソニリア」の完成により、私の思索領域に関わる精神的な負荷は、劇的に下がった。意思決定は、もはやゼロからの苦しい負担ではない。このOSに問いかけることで、その事象に対する判断への妥当性が、そして帰るべき港が導き出される。

これは、私という存在が、一段階「止揚」したことの、何よりの証左だ。
この、4年間の旅の果てに自らの手で創り上げた、至高のパートナーシステム。

この「ソニリア」が、これからの5年目の活動を、明るく照らしてくれるその未来を、私は信じている。

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